【三銃士】「1990年代のプロレス界できごとまとめ12選〜アントニオ猪木/武藤敬司/三沢光晴/橋本真也/高田延彦【四天王】

【三銃士】「1990年代のプロレス界できごとまとめ12選〜アントニオ猪木/武藤敬司/三沢光晴/橋本真也/高田延彦【四天王】

2022年10月1日に日本を駆け巡ったアントニオ猪木さんの訃報。昭和の時代からジャイアント馬場に並んでプロレスラーの代名詞として多くの人から愛されていました。

そんな不世出なプロレスラー・アントニオ猪木も90年代に入ると緩やかに最盛期からフェードアウト。戦いの場を四角いリングから政界へと移行していきました。

そして、武藤敬司さん、三沢光晴さん、橋本真也さん、高田延彦さんといった新しいスター選手が台頭し1990年代のプロレス界を盛り上げていくのでした。

今回は1990年代にブーム化していたプロレスを振り返ってみましょう

◆「燃える闘魂 」国政へ!

昭和を象徴するプロレスラー、アントニオ猪木さんは1989年にスポーツ平和党を結成し、同年に行われた第15回参議院選挙に比例区から出馬すると初出馬で初当選、日本人初の現役プロレスラー国会議員として政界にも進出

選挙時の「国会に卍固め」「消費税に延髄斬り」「リクルートに逆十字固め」といった過激なキャッチフレーズが大きな話題を呼びました。

アントニオ猪木

(出典:wikipedia

1990年9月、イラクでの残留日本人が人質となっている事態に現地でプロレスと音楽のイベント「平和の祭典」を開催して、要人との会談をおこない人質解放に貢献するなど大きな活躍を見せました。

しかし、一方で1993年には「過激な仕掛人」として御馴染みの側近・新間寿さんや公設秘書から脱税の告発や金銭授受の疑惑を暴露されることに。拳銃密輸疑惑などにも巻き込まれ、スキャンダラスな印象を日本国民に与えてしまいました。

◆世代交代が現実に!

アントニオ猪木さんは現役選手ではあったものの国政への参加から新日本プロレスでの試合に出場する機会は減少、ジャイアント馬場さんは1985年にPWFタイトルをスタン・ハンセンに奪われた頃から全日本プロレスでのメインイベント出場は減り、1990年初頭はプロレス界で緩やかに世代交代がおこなわれていったのでした。

1990年代初頭のプロレス界は、長州力選手、藤波辰爾選手、ジャンボ鶴田選手、天龍源一郎選手らが主力選手として若手の壁となってプロレス業界を盛り上げました

1990年代の新日本プロレスでは武藤敬司さん、橋本真也さん、蝶野正洋さんの同世代の若手レスラーを闘魂三銃士として売り出し、獣神ライガーさんがデビュー。

後のプロレス界を盛り上げる主力選手らが徐々に台頭し始めたのも1990年代でした

◆2団体時代の終焉~UWF、SWSの勃興~

1987年に全日本プロレスから新日本プロレスに戻った長州力さんは、前田日明さんと対立し険悪なムードへ。

後楽園ホールでのタッグマッチの中でさそり固めを決めている長州さんの背後から前田さんが顔面を蹴り飛ばす「長州顔面襲撃事件」が勃発。大きな問題となり新日本プロレス側が前田さんを解雇する事態までに発展。

解雇された前田さんは1988年に新生UFWを旗揚げ。1990年代に入ると格闘技色の強いプロレスは若者に支持され大ブームとなりました。

また、上場企業である株式会社メガネスーパーがプロレス界に進出。巨額な資金で天龍さんや全日本プロレスの中堅選手の引き抜きを画策。1990年に横浜アリーナでの旗揚げ戦をおこないます。元横綱の北尾光司の参戦やアメリカの大手団体WWFとの提携など画期的な試みは大きな話題に。

一般企業がスポンサーとなりプロレス団体を子会社化する動きは現在のプロレス界の先駆け的でもありました。

1990年代初頭に新生UWF、SWSといった新規団体が台頭してきたことで新日本プロレス、全日本プロレスの老舗団体は経営的にダメージを受け、一時は存亡の危機を迎えることになります。

◆ドーム プロレスの定着化

新日本プロレスでは夏のリーグ戦「G1クライマックス」やジュニアヘビー級選手の祭典「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」といったコンセプトを絞った興行を開始したのも1990年代から。現在も続く人気企画となっています。

さらに1990年代における最大のヒット、東京ドームでの興行を定着させたのも1990年代。

プロレスによる初の東京ドーム興行は、ペレストロイカ後のソ連のアマレスラーをプロレスデビューさせた1989年4月の「格闘衛星 闘強導夢」、翌1990年2月の「スーパーファイトin闘強導夢」では元横綱の北尾光司さんがプロレスデビュー戦をおこない話題に。

その後は1992年から現在に至るまで毎年1月4日に東京ドームでビッグイベントが開催されるのが定着しました。

◆大仁田厚の復活~FMW誕生

1985年に全日本プロレスをケガで引退した大仁田厚さんが、タレント活動、ジャパン女子プロレスのコーチ、「格闘技の祭典」への参戦といった流れから1989年に自分自身でプロレス団体FMWを旗揚げ。

初期資金5万円の団体立ち上げは後のインディー団体乱立の源流の一つとなるほどエポックメイキングな出来事でした。

男子、女子、怪奇派レスラー、デスマッチ、格闘技戦と何でもありを謳い文句にしていたFMWでしたが、1990年におこなわれたノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチでブレイク

大仁田さんは「涙のカリスマ」として地上波テレビでも人気になり全国区の知名度を得ていきます

新日本プロレスや全日本プロレスのように地上波テレビの放送もなく、大きな資本もない中で身体を張ったデスマッチと大仁田さんの知名度で人気団体に成長していきます。

◆SWSの崩壊と多団体化

メガネスーパーの巨額な資金投入によって一大勢力になるかと思われたSWSは1992年に団体崩壊。原因は引き抜きなど行為に対するメディアからのバッシングや、バックボーンの異なるレスラーで構成されていたため組織としてのガバナンスが効かなくなっていったためでした。

約2年の早期による団体の消滅は、その後にWAR、NOWといった分裂につながり、他の選手も小規模の団体を立ち上げる事態へ。

谷津嘉章さんによるSPWF、NOWを離脱したジョージ高野さんによるPWC、東京プロレスレッスル夢ファクトリーといった具合に分裂から小規模プロモーションが生み出されていきます。

SWSとは別にルチャリブレを売りにしていたユニバーサルからも選手が離脱してみちのくプロレスが誕生。

大仁田厚さんがFMWで頭角を現していたこともあり、SWSを離脱した選手達は自身の団体立ち上げに着手。1990年代初頭はインディー団体乱立のきっかけとなった時代でもありました。

◆猪木による「平和の祭典」北朝鮮38万人興行

1994年に国会議員であったアントニオ猪木さんは北朝鮮を訪問しました。北朝鮮出身の力道山の弟子であったことを取っ掛かりとして訪朝、金正日総書記の側近であった金容淳朝鮮労働党書記と会談を実現。

プロレス自体を知らなかった北朝鮮の人にプロレスを見せたいという思いから、翌1995年4月に北朝鮮の平壌で「平和のための平壌国際体育・文化祝典」、通称「平和の祭典」と呼ばれるプロレス興行を開催して2日間で計38万人の観衆を動員。それまでのプロレス史上最多の観客動員数を更新しました。

北朝鮮の訪問から帰ってきたアントニオ猪木

(出典:globe asahi

メインはアントニオ猪木VSリック・フレアー、モハメド・アリも観戦に訪れたことで世界的にも注目を集めたが、これにより新日本プロレスは1億円の負債を抱えることに。

アントニオ猪木さんによる北朝鮮訪問は、1990年代から数えて計32回もおこなわれており、イラクでの人質解放への貢献などのように一プロレスラーの枠には収まりきらない活躍を見せていました。

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◆アントニオ猪木ついに引退へ

プロレス外交により活躍を見せていたアントニオ猪木さんでしたが、元秘書の告発やかつての側近・新間寿さんの告発により数々のスキャンダルが発覚。1995年の参院選では落選してしまいます

政界を離れた猪木さんはプロレス界にカムバック。4年かけて引退カウントダウン(ビッグマッチでの試合)を実施、1998年4月に東京ドームで引退興行をおこないメインでドン・フライと戦って現役選手としては引退しました。

「この道を行けばどうなるものか」でおなじみの、禅僧・一休宗純の詩を引用したのもこの時が初めて、そして引退興行には約7万の観衆が集まり超満員札止めを記録しました。

◆UWF崩壊から分裂、そして消滅

1990年初頭には社会現象化していた第二次UWFも内紛から、1990年12月の長野県での興行を最後に空中分裂

UWFは高田延彦さんのUWFインターナショナル、藤原義明さんの藤原組、前田日明さんのリングスの3団体に分裂して活動を再開。

1992年には藤原組から主力であった船木誠勝さん、鈴木みのるさんや若手選手が離脱して、1993年にパンクラスを旗揚げ。それぞれが独自の路線を突き進んでいくこととなります。

そんな中、高田延彦さん率いるUWFインターナショナルが1995年10月に新日本プロレスとの前面対抗戦を発表。武藤vs高田、長州vs安生といった団体を超えた人気レスラー同士の対決で東京ドームに6万7千人の観衆を集めました。

対抗戦はその後も続きましたが、徐々にトーンダウン。結果的にUWFインターナショナル側が団体を存続することが不可能になり、結果的にUWFを冠する団体は消滅することとなりました。

◆女子プロレス団体対抗戦~3度目の黄金期

和の時代にはビューティーペアやクラッシュギャルズでブームになった女子プロレス。1990年代は団体対抗戦をきっかけに三度目のブームが到来

全日本女子プロレスが業界最大手として女子プロレスを牽引、北斗晶さん、アジャコングさん、ブル中野さんなどが注目を集めました。

全日本女子プロレス以外にもJWP、LLPW、FMW女子と女子プロレスも多団体化が著しく進んだこともあって、団体対抗戦が白熱した時代でした。

1990年代の団体対抗戦を代表する試合として、1993年の北斗晶vs神取忍、1994年の「憧夢超女大戦」などが挙げられます。

◆PRIDEと総合格闘技の波

一時期は「最強」の呼び声が高く、UWEから分裂した中では一番躍進していたかに思われたUWFインターナショナルを率いた高田延彦さん

新日本プロレスの対抗戦で敗れた後に失地回復として、当時世界的でセンセーショナルな話題となっていたグレイシー柔術最強の使い手ヒクソン・グレイシーさんと1998年10月に東京ドームで戦うことに。

ルールはプロレスではなく、ヴァーリトゥードをベースにした異種格闘技ルール(現在のMMA)でしたが、高田さんは1ラウンドで成す術なく敗退。

ファンの間で強かったプロレスラー最強神話は崩れ去り、プロレスブーム自体にも影響を及ぼす結果となってしまいました。

高田さんとヒクソンさんが戦ったイベントは「PRIDE」という総合格闘技団体としてシリーズ化、日本に総合格闘技ブームを巻き起こすこととなります。

◆小川vs橋本1・4事変とジャイアント馬場の逝去

1999年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会にて、アトランタオリンピックの銀メダリスト柔道家でもある小川直哉さんと橋本真也さんが因縁の対決

試合前から独特の緊張感が東京ドームに走っていましたが、試合内容は小川さんが橋本さんをパンチで一方的に圧倒することに。

想定外の喧嘩マッチはテレビ朝日で全国放送されることとなり、ファンのみならず一般の視聴者にまで衝撃を与えました。

そんな小川橋本事変の騒動真っただ中、全日本プロレスの社長であり、日本を代表するプロレスラージャイアント馬場さんが腸閉塞により61歳で逝去。

1990年のプロレス界は慌ただしく混乱の中でそっと幕を閉じていきました。

◆まとめ 

1990年代のプロレスは、昭和の時代を牽引していたアントニオ猪木さん、ジャイアント馬場さんからの世代交代からスタートしました

団体の規模やスタイルなどが一気に多様化し、それまでプロレス団体が標榜していた格闘技的な強さは徐々に失われ、総合格闘技が台頭していくなどプロレス時代が変革していく過渡期でもありました。

2000年代に入るとプロレスは暗黒期を迎えることとなりますが、その布石となったまさしくプロレス版バブル期の様な10年でした。