【Hip-Hop】後に大きな影響を与えた90年代ラッパー9選【洋楽】

【Hip-Hop】後に大きな影響を与えた90年代ラッパー9選【洋楽】

1980年代はHipHopにとって革命が起きた時代、そして1990年代はHipHopにとってもラップにとっても黄金時代となっていきました。

1990年代はHipHopやラップが商業的な成功を収める年代でもあり、ポップミュージックのシーンでも大きな力を持つようになっていくのが分かります。

そして何よりも1990年代はアイス・キューブ、メソッド・マン、ア・トライブ・コールド・クエスト、パブリック・エネミー、バスタ・ライムス、デ・ラ・ソウルといった名だたるラッパーを輩出し、現在でも聴かれている名作や名曲が多くリリースされた時代でもあります。

この記事では後世にも大きな影響を与えた90年代を代表する偉大なラッパーを紹介します。

JAY-Z

JAY-Zは1990年代のHipHop界を代表するラッパーの1人であり、現在は起業家としても成功を収めています。

「Roc Nation」というエンターテイメント会社を所有し、今まで出したアルバムは全世界で約5000万枚を売り上げ、数々の賞を受賞しています。

彼のアルバムの多くは、数多くのランキングに何度も上位にチャートインし、起業家としては、40/40 Club、Def Jam Records、Roc Nation Sports、Roc-A-Fellaを所有し、NBAスポーツ代表の資格も持っています。

アメリカでは最も成功したアーティストの一人に選ばれ、50セント、ネリー、エミネムなどの代表的なラッパーと肩を並べる存在にもなり、私生活では2008年にビヨンセと結婚もしています。

JAY-Zは1990年代に4枚のアルバムをリリースしているが、ファーストアルバム「Reasonable Doubt」で聴ける早口のラップとフロー、ジャジーなプリプロダクション、ストリートについてのライムといったスタイルは多くのファンの心を掴み、このアルバムがJAY-Zのベストに挙げる人も少なくありません。

N.W.A(Niggaz with Attitude)

N.W.A(Niggaz Wit Attitudes)は、カリフォルニア州コンプトン出身のグループで、ギャング、ドラッグ、セックス、反権力を露骨に表現する内容で人気を博し、また物議を醸した伝説的なグループ。

HipHopにおけるギャングスタ・ラップというジャンルを世に送り出し、西海岸のHipHopシーンの知名度を高めることにも貢献しています。

N.W.Aの成り立ちは、1987年に高校を中退してドラッグディーラーだったEazy-Eによって結成されました。

イージー-Eはドラッグマネーを使ってレコードレーベル「Ruthless Records」を立ち上げ、World Class Wreckin’ Cruのメンバーだったドクター・ドレーとラップグループC.I.A. (Cru’ in Action!) のメンバーだったアイスキューブを勧誘。

その他にもMCレン、DJイエラを擁し、80年代後半から90年代にかけて活躍しました。

1988年にリリースされたファースト・アルバム「Straight Outta Compton」で脚光を浴びるも、金銭面でのトラブルでアイスキューブが1989年に脱退、1991年にはドクター・ドレーがソロ活動のために脱退しグループは解散してしまいます。

過激な内容とビジュアルによって「ギャングスタラップ」を世に知らしめ、「Straight Outta Compton」はHipHop史における分岐点とも言われています。

結成から解散までが早かったですが、名作アルバムを世に出したことと今でもソロで活躍しているメンバーがいたことで現在では伝説的な扱いをされているグループです。

Ice Cube

N.W.A.のメンバーとしてHipHop界で有名になったアイスキューブでしたが、印税を巡るトラブルやメンバー内での軋轢によって1989年にグループを脱退。

その後はソロアーティストとしてのキャリアをスタートさせていきます。

1990年にはソロになって初のアルバム「AmeriKKKa’s Most Wanted」をリリース、高い評価を得てラッパーだけでなくプロデューサーとしても成功を収めていきます。

さらにアイスキューブは、ジョン・シングルトン監督の青春映画「ボーイズ・アンド・ザ・フッド」(1992)に出演、俳優としても高い評価を受けることとなります。

映画界でのキャリアをスタートさせたアイスキューブは、その後も「Friday」(1995年)、「Three Kings」(1999年)、「Barbershop」(2002年)など、数々のヒット作に出演しています。

1992年はアルバム「Predator」をリリースして商業的な成功を収めます。1990年代は計6枚のアルバムをリリースし、アイスキューブはHipHop界での地位を固たるものにしました。

The Notorious B.I.G.

ビギーとして知られている伝説的ラッパー、ザ・ノトーリアスB.I.Gは、比較的短い音楽キャリアにもかかわらず、同時代の最も偉大なラッパーの一人として知られています。

1993年にバッドボーイ・レコードと契約し、1994年にリリースされたデビューアルバム「Ready to Die」は広く批評家から絶賛を浴び、一夜にして、ビギーは世界的な成功を収めました。

当時は西海岸のHipHopシーンが有名で、東海岸のHipHopシーンを回復させることに成功したビギーは、1995年のBillboard Music AwardsのRapper of the Yearを獲得するまでになります。

しかし、成功も束の間、ビギーは東海岸と西海岸のHipHopシーンの対立の激化に巻き込まれ、1997年にロサンゼルスで銃撃により殺害されてしまいます。

25歳の誕生日の 2か月前の出来事であり、セカンドアルバム「ライフ・アフター・デス」のリリース2週間前の悲劇でした。ビギーの死後に発売された「ライフ・アフター・デス」はビルボード200チャートで1位を獲得。

早すぎる死にもかかわらず、ザ・ノトーリアスB.I.Gは1990年代、いやHipHopを代表するラッパーとしての地位を確固たるものにしました。

ビギーの短いながらも重要なキャリアは、すでに歴史の一部となっているのです。

2パックとビギーの事件はどちらも未だに未解決で、Hip-Hopが生んだ史上最悪の出来事として今日まで語り継がれている。

最も偉大で、最も衝撃的で、最も影響力のあるアーティストたちの全盛期として位置づけられる。

2Pac

ザ・ノトーリアスB.I.Gと同様に1990年代に活躍しながらも若くして銃弾に倒れたトゥパック・アマルシャクールこと2PACは、当時のギャングスタラップを牽引した1人として有名です。

NYハーレム出身で、両親がブラックパンサー党だった2PACは、ドラッグディーラーとして実際にギャングスタの文化に身を置き、1990年、オークランドを拠点とするラップグループ、Digital Undergroundに加入。

1991年にDigital Undergroundの2枚のアルバム『This Is an EP Release』と『Sons of the P』に参加し、同年末にソロデビュー『2Pacalypse Now』をリリース。

内容は、Public Enemyや西海岸のギャングスタラッパーN.W.Aの作風に近いギャングスタラップでした。

ソロでのキャリアによって成功を収めていきますが、2PACのギャングスタなライフスタイルは影をひそめることはなく過激なまま。

警官を狙撃したり、女性軽視の歌詞などで名誉毀損で訴えられる、性的暴行で服役する、5発(頭部に2発、股間に2発、手に1発)もの銃弾を被弾する事件に巻き込まれ等々。

1995年に服役中にドクタードレーの「デス・ロウ・レコード」と契約し、西海岸を代表するラッパーになっていきます。

そして1996年にマイクタイソンの試合を観戦した後に横付けされたキャデラックから4発の銃弾を浴び25歳にして帰らぬ人となってしまいます。

この時の狙撃した犯人は未だに誰もわかっておらず動機も不明なまま。

同じく銃弾に倒れたビギーと並び、Hip-Hopの東西抗争の被害者であり、今も多くのアーティストに影響を与えるラッパーとして語り継がれています。

関連する記事について

【洋楽MV】90年代洋楽で流行ったミュージックビデオ9選を紹介します!

LLクールJ

LL クール Jは、”Ladies Love Cool James “を略したニックネーム。

LL クール J は1984年に設立間もないヒップホップ・レーベル Def Jam Records と契約、当時の年齢は16歳で、若くしてキャリアをスタートさせました。

1980年代後半から1990年代にかけて「Bigger and Deffer」,「 Walking with a Panther」,「 Mama Said Knock You Out」,「14 Shots to the Dome」,「Mr. Smith」 などのアルバムをリリース、ヒット曲を連発した後、1990年代後半には、LL クール Jは正式に俳優としてのキャリアを歩み始めました。

1997年、ハル・ベリー主演、ロバート・タウンゼント監督のコメディ『B.A.P.S.』と1998年のホラー映画『Halloween H2O』に出演し、ジェイミー・リー・カーティスと共演。

1999年の『Any Given Sunday』では、アル・パチーノ、デニス・クエイド、キャメロン・ディアス、ジェイミー・フォックスといった大物スターを相手に脇役に徹し、その演技力を見せつけています。

ビースティ・ボーイズ

結成は1978年と早く、当時は実験的なハードコアパンクバンドだったビースティ・ボーイズ。当初は「the Young Aborigines」と名乗っていましたが、1983年にHipHopテイストのシングルがヒットしたことでビースティ・ボーイズに改名、またHipHopグループへと転身します。

HipHopといえばアフリカン・アメリカンが独占するカルチャーであった中で、成功を収めた初の白人ラップ・グループでもあります。

当初は文化の盗用とも非難されることもあったが、ビースティ・ボーイズの商業的な成功はロックファンやポップスファンがHipHopを聴くきっかけともなり間口を広げたともいえます。

HipHop出身のアーティストに比べると、ロックとラップが融合したスタイルなので聴きやすいという特徴もあります。

彼らのヤンチャなスタイルに影響を受けた人も多かったでしょう。

パブリック・エネミー

政治的な主張が激しかったパブリック・エネミーは、ニューヨーク州ロングアイランド出身のラップグループ。

アメリカの政治や社会的問題に言及することが多いグループでした。

パブリック・エネミーは、大衆を啓蒙する手段としてラップを使う社会活動家でもあり、HipHopカルチャーを前進させたグループとしても認知されています。

パブリック・エネミーは、ストリートに感化されたRUN DMCのビートや、ギャングスタ・ラップの原型ともいえるブギ・ダウン・プロダクションズのラップ、社会的メッセージを発した2枚のアルバム「It Takes A Nation Of Millions To Hold Us Back(邦題:パブリック・エネミーⅡ)」、「Fear Of A Black Planet」はHipHop史からみてもに重要な作品であります。

スラッシュメタルバンドのアンスラックスとのコラボレーションやツアーを行なったことも大きな話題を呼びました。

Eminem

幼少期はデトロイトとカンザスシティを母親と転々とする生活を送り、幼い頃から貧困に育ち、友達も出来ずいじめられて自殺未遂までしていたエミネム。

彼は自然とアフリカ系アメリカ人と親しくなるようになり、その中でHipHopやラップとも触れ合っていきました。

いくつものMCバトルコンテストに出場し、黒人が圧倒的優位の中で白人として果敢に挑戦し続け、ラジオ番組でのフリースタイルがドクタードレーの耳にとまり彼のレーベル「アフターマス・エンターテイメント」と契約することで人生が一変。

1999年に「The Slim Shady LP」でメジャーデビューを果たすと600万枚を超えるセールスを記録してHipHopだけでなく音楽シーンで一躍スターに躍り出ます。

2002年には、自身が主演した半自伝的映画「8Mile」が日本でも爆発的な人気を集め、フリースタイルラップの認知拡大にもつながりました。

デビューからこれまで発表したアルバムとシングルは、全世界で2億2000万以上も売り上げており、90年代後半から現在に至るまで最も成功した白人Hip-Hopアーティストといえます。

白人であるエミネムがHipHopで大成功を収めたことこそ、1990年代のHipHopが人種の垣根を超え広く大衆に認知された証明といえるでしょう。

まとめ

1990年代初頭のHipHopは東西シーンの対立から音楽ジャンルとして危機を迎えた時期もありましたが、いつしか世界的な優位性を確固たるものにしました。

その最たる例がエミネムの出現とトップアーティストとしての成功でした。

白人であるエミネムが音楽業界でトップの売り上げを誇るアーティストの道を歩み始めたことは革命的な出来事であり、その後数十年に渡って今日までHipHopの人気は高いままです。

HipHopのアーティストを紹介してきましたが、まだまだ名を上げたアーティストたちはたくさん存在しています。

最近ですと「ジデン」という方が90年代テイストの楽曲を制作して知名度を上げてきています。参考までに聴いてみるのもありかもしれませんね。