90年代のスポーツ界は、80年代に続き数々の感動的なドラマやストーリーがありました。
Jリーグの発足や、メジャーリーグに挑戦する野球選手の増加など歴史的に見てもターニングポイントとなった重要な時代です。
今回は当時活躍したスポーツ選手を振り返ると共に、1990年代スポーツ界の歴史を紹介します。
辰吉丈一郎
(出典:ベースボール・マガジン社)
「難波のジョー」で御馴染み辰吉丈一郎さんは岡山出身のプロボクサー、平成元年にデビューし1991年にWBC世界バンタム級に初挑戦で初戴冠。
当時の世界タイトル獲得の国内最新記録(8戦)を更新したこともあり一躍話題のボクサーへ。
平成にプロデビューしたボクサーで最初に世界タイトルを獲得した日本人ボクサーでもありました。
WBC世界バンタム級統一戦でビクトル・ラバナレス(メキシコ)に9回TKO負けで王座陥落、その後に網膜剥離を患って引退の危機を迎えます。
網膜剥離を治してからもWBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦、ダニエル・サラゴサとの2階のタイトルマッチ、ウィラポン・ナコンルアンプロモーションとの王者と挑戦者を入れ替えての2連戦など、ドラマチックな試合を繰り広げました。
2000年以降は試合の間隔が飽きすぎて国内では引退扱いになるも、本人は現役にこだわり2022年現在も引退発表はしていません。
若貴兄弟
(出典:文春オンライン)
祖父の代から力士だった若乃花、貴乃花の若貴兄弟は1988年に各界入り。
1991年には当時の横綱であった千代の富士に貴乃花が初取り組みで完勝。その後に千代の富士がバトンを渡すように引退を発表したこともあり、1991年は相撲界にとって世代交代を迎えた年となりました。
貴乃花と貴乃花の兄である若乃花、ハワイからスカウトされた曙を加えた3人の力士が切磋琢磨して90年代の相撲ブームを支えたといってもいいでしょう。
1995年の11月場所では、若乃花、貴乃花による相撲史上初の兄弟による優勝決定戦がおこなわれたのも大きな話題を呼びました。
田村亮子(谷亮子)
(出典:Web Sportiva)
1990年の福岡女子柔道の大会に突如彗星のように現れた当時中学3年生だった田村亮子さん(現姓・谷)は誰も注目していなかった中、次々と競合を破り一躍有名選手となります。
世界選手権7連覇・全日本体重別11連覇を含む14度の優勝・福岡国際11連覇を含む12度の優勝を果たし、5度のオリンピック出場で2個の金メダル・2個の銀メダル・1個の銅メダルを獲得するなど90年代だけでなく、女子柔道の歴史に名を残す選手として活躍しました。
90年代は浦沢直樹の人気柔道漫画「YAWARA」にちなんで、「YAWARAちゃん」のニックネームでお茶の間の人気者に。2003年にオリックスの谷選手と結婚、2010年には民主党の比例区公認候補として出馬、初当選を果たしました。
古田敦也
(出典:野球コラム)
兵庫県出身のプロ野球古田敦也さんは、90年代は東京ヤクルトスワローズに所属して活躍。
キャッチャーでありながら首位打者を獲得。後に2000本安打を達成する好打者でもあり、強肩を活かした守備も球界屈指の実力を誇ります。
同じくキャッチャー出身で首位打者を獲得した先駆者、野村克也監督の「ID野球」を体現する「ID野球の申し子」としても人気を高めました。
岩崎恭子
(出典:文春オンライン)
1992年スペインで開催されたバルセロナオリンピック、競泳女子200m平泳ぎで金メダルを獲得して一躍有名に。岩崎さんは当時中学2年生の14歳、競泳史上最年少での金メダル獲得に日本中が喜びました。
レース後に「今まで生きてきたなかで、一番幸せです」と屈託なく嬉しそうな笑顔で語るシーンは、当時のニュースやワイドショーで繰り返し流されていましたね。
三浦友良
(出典:Web Sportiva)
1990年代のスポーツ界において最も象徴的な出来事は1993年のJリーグ開幕ではないでしょうか。
80年代に徐々に盛り上がってきたサッカー熱がここで爆発。プロ野球に次ぐプロスポーツの出現はJリーグブームとなり、武田修宏、ラモス瑠偉、ゴン中山、川口能活、中田英寿ら人気選手を輩出、多くの子供たちがサッカーに目覚めるきっかけとなりました。
「キングカズ」こと三浦知良さんは1980年代に単身ブラジルに渡り、CAジュベントスに所属してプロサッカー選手を目指していましたが、Jリーグ開幕に合わせて日本へ。
1993年シーズンのリーグ戦の第1ステージ鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決めた記録を持ちます。
Jリーグの誕生により日本にもサッカー文化が根付き、現在活躍する数々のスター選手が生まれる礎を築きました。
三浦さんは、2022年現在も現役選手を続けており、世界最高齢での得点記録でギネスにも認定されています。
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イチロー
(出典:日本経済新聞)
90年代だけでなく野球の歴史に名を残す偉大な野球選手だったイチローさんのデビューは1991年。
ドラフト4位でオリックスに入団した時はまだ「鈴木一郎」名義でした。1994年にイチローに再登録後は快進撃が始まり、同年に210安打で首位打者に輝くとそこから7年連続で首位打者を獲得。
1995年に打点王、1996年にはリーグ優勝の立役者、3年連続でMVPになるなど1990年代のイチローさんの活躍は神がかっていました。
2001年にマリナーズへと移籍を果たすと、メジャーリーグでも人気選手として活躍しました。
野茂英雄
(出典:Web Sportiva)
1980年代は社会人野球で活躍、プロ入りは1990年。
1989年のドラフトでは史上最多の8球団から指名された野茂英雄さんは、1990年に近鉄バファローズに入団。プロとしてデビューしてからすぐに大活躍、最多勝利・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率と投手4冠を独占し、一気にその名を日本中に広めます。
野茂さん独特のトルネード投法は、その投球フォームから球種が打者に分かり辛く三振の山を築き一世を風靡しました。
1995年には大リーグのロサンゼルス・ドジャースに入団し、メジャーリーグでも大活躍。その後の日本人選手が大リーガーになる流れを作った偉大な選手ともいえるでしょう。
武藤敬司
(出典:日刊スポーツ)
昭和、及び1980年代にプロレス黄金時代を作ったアントニオ猪木率いる新日本プロレスでデビュー、1990年代初頭に橋本真也さん、蝶野正洋さんと「闘魂三銃士」を結成、一大ブームを巻き起こした武藤敬司さん。
当時は新日本プロレスだけでなく、ライバル団体「全日本プロレス」も故・三沢光晴さん、川田利明さん、小橋健太さん、田上明さんによる「四天王」や次世代が活躍し、90年代のプロレス熱を高めました。
武藤さんはその後新日本プロレスから全日本プロレス、プロレスリング・ノアと闘うリングは移り変わっていきますが、今でもプロレスの顔として活躍していました。
2022年に膝の不調を理由に現役引退を発表、2023年2月に東京ドームで引退試合を迎えます。
有森裕子
(出典:日刊スポーツ)
有森裕子さんは、日本を代表するマラソンランナーであり、プロランナーの草分け的存在です。
1992年のバルセロナオリンピックでは銀メダル、1996年に開催されたアトランタオリンピックでは銅メダルを獲得しています。
アトランタオリンピックで完走した後のインタビューでは「初めて自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに語り、日本中を感動させました。
闇雲に金メダルを求める世相に反して、純粋で等身大だった有森さんの「自分で自分をほめたい」という言葉は1996年の流行語対象にも選出されました。
中田英寿
(出典:スポニチ)
愛称は「ヒデ」で親しまれたサッカー選手の中田英寿さん。
小学生からサッカーを始めて10代から世界的に活躍しました。U-17世界選手権、U-19アジアユース、ワールドユースなどに飛び級で出場、19歳の時には1996年開催のアトランタオリンピックにも出場しています。
Jリーグには1995年にベルマーレ平塚に加入、1998年に日本代表が初出場となったフランスW杯ではリーグ戦3戦に出場、チームの核として活躍。
そして同年に21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ移籍。その後もヨーロッパのクラブチームで活躍し、2006年に引退を発表した後は実業家として活躍。現在も、日本のサッカー界に貢献を続けています。
船木和喜
(出典:Wikipedia)
1998年2月に行われた冬季長野オリンピックではスキージャンプ団体男子が活躍。
大逆転で金メダルを獲得したことで連日テレビのワイドショーやニュースを賑わせました。日本は計10個のメダルを獲得し、優秀な成績を残しました。そんな中で一番注目を受けたのが船木和喜さん。
長野オリンピックでは個人ラージヒル、団体ラージヒルで2つの金メダル、個人ノーマルヒルで銀メダル1つを獲得する快挙を達成。
個人ラージヒルの2本目では、オリンピック史上初めて審判全員が飛形点20点をつける偉業を成し遂げました。「世界一美しい」とも称される深く踏み込んでのジャンプフォームは世界を席巻しました。
まとめ
1990年代の記憶に残る数々の名試合や名プレーは、今も私たちに多くの熱狂と感動を与えてくれます。
当時を知らなくても、スポーツ好きであれば1990年代のスポーツ界をチェックしてみて下さい。色んなスポーツジャンルで感動できる試合が目白押しですよ。